昨年の夏、京都にある大徳寺孤篷庵(こほうあん)を訪れた。
孤篷庵は小堀遠州が建立した寺院で、本堂や書院は重要文化財に指定されている。
孤篷とは「一艘の舟」の意味。その名の通り、建物全体が船に見立てられており、庭は海や向こうに見える島々を見事に表現している。赤土の枯山水が特徴だ。
庭が広く感じるのは、遠近法を用いているせいだろう。手前のものは大きく、奥のものは小さく作られている。実は、この遠近法を庭に取り入れたのは遠州だと言われている。
ちなみに、ツツジの木を丸く円形に刈り込んだのも、孤篷庵が日本で初めてらしい。(つまり、世界初!?)
遠州の美的センスたるや!
刀掛けは、クスノキの切り株の化石で作られている。お話を聞きながらたくさんメモしたけど、ノートに書いた自分の字が読めない……悔しい。
孤篷庵で有名なのが、「忘筌」と名付けられた茶室だ。
茶室と庭を仕切る明かり障子は、上半分しかない。下半分は吹き抜けになっているのが特徴だ。
ちなみにこの写真は、京都市文化観光資源保護財団 のサイトから。
茶室には「忘筌」という書が飾られている。
これは、『荘子』外物篇にある「筌は魚に在る所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在る所以なり。兎を得て蹄を忘る」が由来らしい。
釣竿は魚を釣るための道具であって、魚が釣れたならばもう用済みだ。うさぎを捕まえるための罠も、うさぎを捕まえることができれば用済みなのだ、という意味。
道具の研究や詮索ばかりに没頭し、肝心の魚やうさぎを捕まえようともしなければ、それは愚かなことだ。釣り竿や罠は手段であって目的ではない。すなわち、目的と手段をはき違えてはいけないよというメッセージが込められている。
ぐさり、と突き刺さるなー。
茶道のお稽古でも、いろんなことを知るにつれて体得したように勘違いしてしまう。けれど、それはただの知識。一生懸命覚えたからといって、実際に座ってお茶を点てなければ意味がない。そういう意味なのだと思う。
茶室「忘筌」は、天井が白い。障子下の吹き抜けから入るわずかな光を反射させるため、部屋全体がいつでも明るい。
うまく言葉で表すことができない、やわらかい明るさだ。
うまく表せないけれど、そういうことが真の「知っている」ことなのかもしれない。
忘筌。忘れずにいたい。